現代史博物館場所はマルクト広場そばのメインストリートのガラス張りビル、
ここは東ドイツ時代やベルリンの壁崩壊の前夜の様子を含めて、
現代史に興味がある人にはとてもお勧めのスポットです。
展示物は第二次大戦のドイツの混乱状態の頃から始まります。
ナチスの末期には東からはソ連が連合国の一員として攻め込んできます。
ドイツの避難民が西へ西へと向かいます。こんな小さな荷車で。
貨車に乗り、歩いて、西へ西へ・・・
こんな状態だったのです。
太線が旧ドイツ領、青い部分は現在のドイツ領。ドイツは国土の4分の1を失った。
ドイツ人は各地で追放されて、命からがら西へ向かい、亡くなった方も多数だった。
第二次大戦の終結後、ライプツィヒの付近を占領したのはアメリカ軍でした。(写真)
でも、すぐに占領はソ連軍に交代します。
その訳は、ベルリンです。
アメリカは首都ベルリンをソ連だけに渡すわけに行かなかった。
占領地の交換後の地図がこれです。
青い色がアメリカ、オレンジ色がソ連、そのほかはイギリスとフランスの占領地。
ソ連の占領地は、後にそのまま東ドイツに移行しました。
地図の左下の丸の中はベルリンの拡大図。ベルリンは旗のマークの通り分割されました。
西ベルリンはソ連の占領地の中の離れ小島のようなところになったのです。
ドイツの降伏直前の1945年2月、ヤルタ会談の写真でしょう。
チャーチル、ルーズベルト、スターリン。
この3人で戦後処理の大枠を決めた。領土の取り扱いもこの時に決まった。
市民が戦車に向かっている。
ベルリンの壁ができる直前の頃、この市民運動はあっけなく潰されました。
現代中国の天安門事件のようなものでしょうか。
1961年、ウィーンでケネディが演説したのは。一触即発のベルリン危機の時
フルシチョフとベルリン問題で激しくやりあった。
「あなたはアメリカの占領地域を離れつつある」・・・?意味するところは
「ここから向こうはソ連の支配区域です」(境界線にあった標識)。
東西の国家分離の結果、東から西へ逃亡する人が増加して、
東側はその対策として、東西を隔てる壁を造りました。
ベルリンだけでなく、東西ドイツの間全部に。
写真左はベルリンの壁の建設風景でしょう。
右はまだ鉄条網だけですが、このあとしだいに大きな壁になります。
1949年、ソ連の占領地域だけがその支配下で独立し、ドイツは東西分裂時代になります。(ベルリンの壁はまだその時点では無かった。)
ライプツィヒのあるザクセン州は東ドイツに組み込まれました。
次に登場するのは、
1990年までの約40年間の社会主義時代の雰囲気を残す展示物です。
スターリンでしょう。
当時の会議室でしょう。
赤い看板がいかにもその時代です。
これは恐ろしい車です。
強暴な国家権力の護送車。
市民が連行されています。政治犯でしょうか。
停滞する社会主義経済で、
東ドイツ時代は経済的には西と大きな格差がつきました。
野暮ったい画一的な商品でも、有りさえすればいいという。
この車が東ドイツの消費生活のレベルを象徴していました。
馬力はなく、チョークを引かないとすぐにエンジンが止まる車、
とっても臭い排気ガスも特徴でした。トラバントです。
カール・マルクス・シュタットに改名されていた街もありました。(現ケムニッツ)
1989年になって時代は変わります。
自由を求める声が高まり、社会主義経済も行き詰まり、
ソ連が少しづつ替わりはじめ、東欧の自由化の流れになり、
東ドイツでは人々のデモが始まります。
東ドイツの中でもライプツィヒは先進的なところでした。
wikipediaによると、東ドイツ時代末期の1989年にはニコライ教会での集会を発端とする「月曜デモ」と呼ばれる反体制運動が起き、これが東ドイツにおける民主化運動の出発点となった。当地の市民蜂起に始まり、ベルリンの壁崩壊、そして東西ドイツが犠牲者を出すことなく統一された一連の出来事は、現在東欧革命の一部として「東ドイツ平和革命」と呼ばれる。
ニコライ教会で毎週、平和の祈りという集会があり、
そこが運動の拠点になっていきます。
看板には「ニコライ教会はすべての人に向かって開かれている」
と書かれているのでしょう。
集会の後はデモ行進がなされます。
市民のパワーが当局の勢いをそぎます。
ベルリンの壁が崩壊し、広場に集まった人でしょう。
東西ドイツ統一は流血なしの平和革命、
その端緒となったのがこのライプツィヒでした。
歴史の舞台となったニコライ教会はこの博物館のすぐそば、
でもそこに行く前に、時間は前後しますがもう一つの博物館をご紹介しましょう。
トーマス教会の西側、メンデルスゾーンの像の辺りから環状道路を北へ、
しばらく行くと、古いビルがあって、そこは・・・
旧国家保安省記念館
Gedenkstätte Museum in der „Runden Ecke“
というところです。
ライプツィヒ観光局のホームページによると、
旧国家保安省記念館では現代史の知られざる一面に触れることができます。かつてここには東ドイツ政府の国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit / 通称:Stasi シュタージ)のライプツィヒ支部が置かれていました。ルンデンエッケ(Runden Ecke =円い角)と呼ばれるこの建物は現在その記念館となっており、館内では「国家保安省 ― その権力と空疎」と題した常設展が行われています。
国家保安省は東ドイツ国民を監視することなどを目的に国内外に展開された秘密警察・諜報機関で、館内では様々な展示品を通してその歴史・構造・役割が紹介されます。その内容は郵便物監視や電話盗聴のための器具から変装や匂いの嗅ぎわけといったスパイ育成に関するものに及び、実際に使われていた国家保安省の薄暗い庁舎の中で社会主義時代の現実を知ることのできる貴重な場所となっています。
東ドイツ時代の市民にとっては恐ろしい場所、国家保安省の跡です。
今はルンデン・エッケという博物館の通称は、
ルンデは丸い、エッケは角、このビルの形に由来します。
入ると、当時の様子がそのまま残されています。
盗聴装置とか情報機関につきもののあらゆるもの。
ここはシュタージと呼ばれて恐れられた機関です。
軍服に似た制服もあります。
stasi(シュタージ)と書かれている様々なグッズ。
愛されていたとはとても思えない機関なのですが、アピールしたかったのでしょう。
市民も通報者や密告者に多数が組み込まれてしまいます。
当時使われていた機器でしょう。
これは拘置室でしょう。
65号室が保存されていました。
1990年の市民による平和革命の際には、もうやばい、これまでだと思ったのか、
権力者側はそれまでため込んでいた情報をシュレッダーにかけて破棄しようとしました。
大きな機械はシュレッダーでしょう。
膨大なデータは、盗聴や密告に基づいていて、自分たちの悪業がばれるのを糊塗したかった。
それを察知した市民はこれを阻止して、闇に葬られないようにしました。
当局の悪業にかかわる書類は市民により大部分が保存されました。
膨大なデータは、今は市民が自身に関するものはアクセスできて、
過去に自分がどう扱われたのか知ることができるそうです。
現代史博物館も
Runden Eckeもともに入場料無料、というのは素晴らしいのです。
市民がドイツの歴史を知ることが、国家と市民の利益だと考えられているのでしょう。
さて、現代史博物館のそばに戻り、当時の運動の中心地となった教会に来ました。
ニコライ教会です。
列柱と天井が美しい。
説教台でしょう。市民集会の時にここで、呼びかけが行われた歴史的な場所。
市民が勇敢にもデモをして、それがきっかけで世界が変わった。
ベルリンの壁の崩壊の時の映像です。
当時はここでデモが行われた。
今は平和な、市民がのんびり楽しむ街。
次のスポットは、アウグストゥス広場のライプツィヒ大学ですが、
東ドイツ時代にはカールマルクス大学という名前に変えられていましたが、
メルケル首相はこの大学の出身者で、物理学の専攻でした。
写真は就任当時のものでしょうか、まだお若いですね。(写真は現代史博物館)
アウグストゥス広場から見たライプツィヒ大学です。
ドイツではとても名門の大学だそうです。
社会主義の時代を乗り越え、今の姿に。
なかなかモダンな建物です。
昔ここで学んだゲーテも、森鴎外も、これを見ればびっくりでしょう。
次回はメンデルスゾーンの家へ。